昭和46年1月28日 夜の御理解
                           中村良一


神と仲ようする信心と仰るが、信心ほか、何でも同じですけれども、神様には、出来るだけ近寄らなければならない、近付かせて頂かなければならない。けれども、近付き、また過ぎてもならない。なかなか、その辺が難しいところですよね。始めの間は、例えば、内殿の中に入りますと、身が縮むようにありますよね。あるよな方達が、けども、段々、慣れてくると、もう、平気でご神前をつかつか歩くようになる。これではいけません。これはあの、私の状態でも、同じ事でございます。
例えば、私には、出来るだけ、みんなが接近しなければならない。接近し過ぎてもいけないと言われておりますね。取次ぎ者と取次ぎの者と。だから、ここには、一つの間隔と言うものが、何時も置かれておかなければならない。あんまり、引っ付きすぎると、こう、頭が下げられなくなってくるという訳なんです。( ? )心の問題ですけれどもね。
例えばあの、私が、こうして足を揉んでもらいますから、なかなか、やはり、私の身体に触ってくださるちいう方は、そう沢山は無いし、また、言われても、私はお断り致します。けれども、まぁ、本当にね、こう、芯から、おかげを頂こうという人でないと駄目ですね。でないと、これがその、そこまでが、おかげであってから、今度それが、慣れっこになりますとね。今度はもう、足を揉みながら、ちゃんと眠ってしまうようになります。ね。ですから、その、近付かなければならない、慣れなければならない。けれども、慣れ過ぎてはならない。その辺の兼ね合いと言うものが、その辺が非常に難しい。
例えば、お広前に、こうやって、ほんなら、内々の者が、お広前に出てくる。ね。エプロンがけで、出てくるといった様な事では、もういけません。ね。ですから、やっぱ、裏から出てくるでもですね。やはり、お広前に出てくる時には、手口ぐらい、ゆすぐ位な、私は、気持ちが要るんじゃないでしょうかね。お参りをしてくる人達は、あそこで、手も洗ったり、口ゆすいだりして入って参ります。ですから、ほんなら、家の者は、そんな事は要らんという事はない。家の者でも、やはり、裏から出てくる時には、手口ぐらいゆすがせて頂いて、お広前に来る。エプロンでもはめとるなら、エプロン外してくる。御祈念するでなからなければ、御祈念が出来ないと言うくらいな信心にならなければいけん。慣れ過ぎては、おかげにならない。慣れなかったらまた、いわゆる、神と仲ようする信心という事にはならない。その辺の所を、私は、何時も心掛けさせていただかなきゃいけんですね、信心は。だから、やはり、勿論、心のなかに、生き生きとしたものが必要ですけれども。その精進と言うか、努力が必要ですね。ちょっと、ほんなら、上着だけでも変えてくるとか、羽織引っ掛けてくるとか、ね。今申しますように、手口をゆすがせて頂くといった様な、その心がけがです。御神前に行った時に、また新たな、さらな、神様と接近出来れる心が、そこから生れてくる。ね。それが、私は有難いと思うですね。どうぞ。